本研究の目的は、大強度陽子加速器施設J-PARCにおいて、荷電レプトンのフレーバー保存則を破るミューオン電子(μ-e)転換過程(μ-N → e-N)を現在の上限値の100倍以上の実験精度で探索し、標準理論を超える新しい物理現象を発見することである。

この研究は、J-PARC E21として採択されているCOMET(COherent Muon to Electron Transformation search)実験の第1段階に相当する「COMET Phase-I」として、平成25年度から5年間で推進する。また、COMET実験の第2段階では、更に100倍の向上、すなわち現在の上限値の10000倍の向上を目指している。

平成24年に、欧州CERN研究所のLHC加速器でヒッグス粒子が発見され、素粒子物理学が活況を呈している。しかし、LHCにおいて新粒子は発見されておらず、標準理論を超える新しい物理のヒントは未だ得られていない。この状況を踏まえ、新しい物理のヒントを得るために稀崩壊探索が注目を浴びている。
稀崩壊探索の研究では、量子補正による効果を使って、新粒子の存在を研究する。この効果は非常に小さいことが予想されているので、標準理論では禁止されている過程を研究対象にするのが最善である。そのベストな過程の一つが、荷電レプトンのレプトン・フレーバー非保存過程(以下、CLFV =Charged Lepton Flavor Violationと参照)であり、たとえば、ミューオンが電子に変わるようなミューオン電子(μ-e)転換過程などである。
現在のμ-e転換過程の探索の実験上限値は、B(μ-+Au → e-+Au) ≤ 7×10-13(90%C.L.)である[1]。COMET実験では、その上限値を10,000倍向上し、3×10-17の1事象発見実験精度(single event sensitivity=SES)での探索を目標とする。COMET実験は、平成21年度にJ-PARC 実験審査委員会(J-PARC PAC)において採択されている。

平成24年に高エネルギー加速器研究機構(KEK)素粒子原子核研究所(素核研)は、J-PARCのハドロンホールに新しいビームラインを建設する中期計画を決定した。この中期計画では、高運動量陽子ビーム実験およびCOMET実験に使用する新しい一次陽子ビームラインと、COMET用高強度ミューオンビームラインの最初の90度湾曲部まで(図1に表示)を平成25年度から3年間で建設する。この中期計画に対応して、我々は平成25年度から5年間でCOMET実験の第1段階(COMET Phase-I)を進める計画を提案した[2]。
図1に、COMET Phase-I(左図)とCOMET Phase-II(右図)のレイアウトを示す。COMET Phase-Iの目標は、(1)100倍以上の実験精度でμ-e転換過程探索を早期に開始すること、(2)最終段階であるCOMET Phase-IIで重要となるミューオンビーム中のバックグラウンド源について調べることである。この実験提案は、J-PARC PACにおいて採択され、文部科学省の大強度陽子加速器施設評価作業部会においても承認されている。
また、平成25年度のKEK将来ロードマップにも、最優先課題の一つとして明記されている。KEKがCOMET Phase-Iに必要な施設設備を建設し、COMET Phase-I用の実験測定器については実験グループで準備することになっている。したがって、COMET Phase-Iに必要な測定器を建設しμ-e転換過程探索を進めることが本研究である。本研究計画では、平成25年度から3年間で測定器建設を完了し、平成28年度にテスト実験を、平成29年度に本実験を行う予定である。

素粒子物理学での位置づけ

クォーク混合(ある種のクォークが別種のクォークに変換すること)の研究で、平成20年に小林・益川両教授がノーベル物理学賞を受賞された。また、スーパーカミオカンデ等でのニュートリノ振動現象の発見から、ニュートリノには質量があり、ニュートリノが異種のニュートリノに変わるニュートリノ混合が実験的に確立した。これは、日本の研究者の大きな貢献が大きく、日本からの将来のノーベル物理学賞の最有力候補となっている。しかし、最後に残っている荷電レプトン間の混合はまだ未発見である。たとえば、ミューオンが電子に転換する過程(CLFV過程)を検出し荷電レプトン混合を確立すれば、ノーベル物理学賞クラスの発見となる可能性がある。

標準理論の寄与の評価

ニュートリノ振動実験の結果からニュートリノは大きな比で混合しており、レプトンフレーバー保存は破れていることが知られている。しかし、このニュートリノ混合を考慮しても、ミューオンが電子に転換する過程の標準理論の予測値は0 (10-54) 以下となり、常に小さい。これは、ニュートリノの質量差がWボゾンの質量に比べて小さいからである(これをGIM機構という)。すわなち、標準理論ではCLFV過程は禁止されていて、新しい物理現象の探索に最適であるということである。

CLFVに寄与する新物理と他のミューオンCLFV過程の比較

本実験の実験精度でCLFV過程を発見できると予言する新物理の理論モデルはたくさんある。たとえば、超対称性理論、Little Higgs理論、余剰次元理論などである。これらの理論はTeV以上のエネルギースケールで新しい物理現象があることを予測している。μ-e転換過程以外に重要なミューオンのCLFV過程として、μ+ → e+γ稀崩壊がある。

一般に、CLFV過程をおこす新しい物理のメカニズムを理解するためには、いくつかのCLFV過程を調べて比較する必要があると考えられている。たとえば、μ-e転換過程をおこす新物理の寄与は2種類あり、ひとつはphotonic dipole interactionの寄与であり、もうひとつはcontact interactionの寄与である。この場合のeffective lagrangianは以下のように与えられる。

ここで、Λは新しい物理のエネルギースケールであり、κは2つのinteractionの寄与の比である。μ-e転換過程とμ+ → e+γ崩壊で到達できるエネルギースケールΛをκのパラメータの関数でプロットしたものを図2に示す。κが小さい場合はphotonic dipole interactionが主たる寄与をし、κが大きい場合はcontact interactionが大きな貢献をしている。現在のμ+ → e+γおよびμ-e転換過程の実験上限値によって排除されるΛの領域とCOMET Phase-Iの目指すΛの目標値も表示してある。これより、これらのCLFV探索によって到達できるエネルギースケールΛはO (103) TeV領域に達し、粒子加速器で直接到達できない高いエネルギーの物理現象や新粒子の探索が可能となることがわかる。さらに、μ-e転換過程探索とμ+ → e+γ稀崩壊の両探索はお互いに相補的であって、これらの比較から新しい物理のメカニズムが得られることが理解できる。

現在、PSI 研究所においてμ+ → e+γ稀崩壊を探索するMEG実験が進行している。最新のμ+ → e+γ稀崩壊の上限値はB(μ+ → e+γ) < 5.7×10-13 (90 % C.L.) である [3]。また、このMEG実験が目指す目標はB(μ+ → e+γ) < 0(10-14) である。図2に、これらの結果から排除されるΛを表示してある。また、μ+ → e+γ崩壊はphotonic dipole interactionだけで起き、μ-N → e-N転換過程は上記の2つの寄与があるので、μ+ → e+γ崩壊が発見されれば、μ-e転換過程も発見されるはずであり、μ+ → e+γ崩壊が発見されなくても、μ-e転換過程は発見される可能性があることも理解できる。したがって、MEG実験とCOMET Phase-I実験はお互いに相補的である。

さらに、米国フェルミ加速器研究所(FNAL)において、COMET Phase-IIと同じ実験精度(SES=3×10-17)でμ-e転換過程探索を目指すMu2e実験が計画されている。Mu2e実験は、FNALにおいて最重要実験のひとつとして位置づけられ、DOEのCD-1採択を受けた。図3に、日本のCOMET Phase-I/Phase-II実験と米国のMu2e実験のスケジュールの比較を示す。COMET Phase-IIで1年間で到達できる実験精度は、Mu2e実験では3年間かかることが考慮されている。図3から、μ-e転換過程探索については、日米間で激しい国際競争が展開していることがわかる。この国際競争に打ち勝つためには、COMET Phase-I実験の早期実現が不可欠である。

[1] W. Bert et al. (SINDRUM collaboration), Euro. Phys. C 47, 337-346 (2006).

[2] R. Akhmetshin et al. (COMET Collaboration), Experimental Proposal for Phase-I of the COMET Experiment at J-PARC”, unpublished (2012).

[3] J. Adam et al. (MEG collaboration), Phy. Rev. Lett. 110, 201801 (2013).